健康の社会史
『「健康」の日本史』(http://10chan-kokoro.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_6bbe.html)よりも、体系的である。時代的には平安時代以降からを扱っている。サブタイトルおよび帯にあるように、ほどほどの生を求めた「養生」⇒富国強兵策とも結びついた「衛生」⇒義務としての「健康(増進)」の時代へと現在に至る変遷を、政治・社会と関連付けて考察している。
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健康の社会史―養生、衛生から健康増進へ(245) 著者:新村 拓 |
「健康に関する一般市民アンケート調査報告」(医療経済研究機構、1995年)の結果から、「健康とは多少の疾病があっても、医療者の手助けを受けながらそれを主体的にコントロールし、疾病との折り合いをつけながら環境にうまく適応し、社会生活を営んでいる状態」ということになり、「数値で示される正常・異常ではなく、社会生活に支障がなければ健康と感じて」おり、疾病ではなく 「病(illness)」 との関係において健康を捉えている。
主軸はやはり、貝原益軒『養生訓』(1712年、益軒83歳:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%94%9F%E8%A8%93)である。『養生訓』を軸に、『医心方(イシンボウ)』(984年、丹波康頼が撰したわが国現存最古の医書http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=91919)を初め、いくつもの資料を引用しながら、『養生訓』に集大成されていった系譜をたどっている。
「天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身」であるから、わが身ではあってもそれは「私の物」ではないと、身体の私物性を否定している。(巻第1)
益軒の養生とは、人生を生き切るだけのものでなく、死に切るための手立てでもあった。
そして、養生の基本は、「心は静かに、身は労する」であった。「食療」が先、「薬療」は後であるなど。要は、「ほどほどの養生」による「ほどほどの生」である。また、「養生せざるは不孝」といった儒教道徳の影響も受けていた。
しかし、近代の養生法は、無体系の知識の羅列や儒教道徳に裏打ちされた中国医学的養生法を否定するところから始まる。
幕末から明治にかけて活躍した啓蒙思想家 福沢諭吉の『養生の心得』(1870年頃)、『学問のすすめ』(1874年)、『通俗民権論』(1878年)になると、富国強兵の基盤となる日本人の体力・体格を向上させるべく、中庸論を退けている。
なお、健康という語句は、近世後期の蘭学者稲村三伯がフランソワ・ハルマの『蘭仏辞典』の蘭語部分の訳蘭和辞典『波留麻和解(ハルマワゲ)』(1796年)にみられるものが初出と指摘されている(八木保・中森一郎)。
それを、1830年ごろ活躍した、高野長英、緒方洪庵の二人が、健康という言葉を使い始めた、ということになろう(『「健康」の日本史』)。
器質的にも機能的にも異常が認められない者を「十全健康」、一部に変調が認められても日常生活を送るうえで不都合が生じない者を「帯患健康」と紹介したのは、緒方洪庵の『病学通論』(1849年)巻二「疾病総論」においてであり、これがやがて「一病息災」に通じ、緒方洪庵に学んだ福沢諭吉も踏襲している(『文明論之概略』(1875年))。
結局、近世後期の知識人の多くが、「ほどほどの養生」による「ほどほどの健康」を得て「ほどほどの生」を終えるのが良い、を支持していたとまとめている。
後半は、後藤新平(1857-1929:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3)、森鴎外(1862-1922:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96)、北里柴三郎(1853-1931:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8C%E6%9F%B4%E4%B8%89%E9%83%8E)の3人を軸に展開されている。
後藤新平の衛生思想(『国家衛生原理』(1889年)、『衛生制度論』(1890年)など)とは、要するに、職業衛生法の整備、作業環境や生活環境を社会全体として整備することが労役者の労働能力、そして「命価」を高め、そのことは労役者のみならず、資本家・公衆にとっても利益となることであり、また公害対策や治安対策、社会主義運動に対する防波堤といった観点からも支持されようという、公衆衛生活動が富国の源であり、公益である、というものである。
後藤新平は、板垣退助の治療に当たっていたとか、相馬事件(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6)で逮捕され一時失脚したとか、面白いエピソードも散りばめれている。
10chanの感心領域にも深く関わっていて...第二次伊藤博文内閣に対し清国からの賠償金をもって疾病保険(疾病金庫・救済衛生・救貧衛生)を立ち上げるよう建言していたり(1895年)、「職業衛生法」(1888-9年)を構想していたりする。労工疾病保険は、1911(明治44)年、工場法、1922(大正11)年成立の健康保険法として形をなすこととなる。工場法の施行は1916年で、雇主の労災扶助義務を規定。健康保険法は、1927年の施行で、労使折半の負担による労災給付を含むが、家族給付は無く、零細企業への適応も除外されている。なお、疾病保険法や職業衛生法は、ドイツから学んだのだろうと指摘している。
社会事業の多くが防貧ではなく救貧対策であった産業革命期において、財を持たない貧民が労役者として国富の生産を担う重要な存在であると位置づけ、彼らの健康と生活を保護することが労働者の再生産を維持し、防疫面および治安面での社会防衛になるとして、公衆衛生事業や疾病保険の立ち上げを主張しつづけたところに、時代の先覚者といわれる由縁があったと評価している。そして、「上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す」のすべてを経験するものだったとすこぶる高く評価している。
また、コレラやペストといった伝染病対策のため、1880年全戸加入の衛生組合の形成、1886年官制に基づく衛生警察の組織。後藤は、衛生警察に対し、「住民の自衛・自治・自助の精神を弱めることになる」と批判的であった。
森鴎外は、後藤を主軸に対比的に述べられている。法的規制に消極的な森鴎外、積極的な後藤新平、といったように。
北里柴三郎の衛生は、要するに細菌学に基づいた衛生、である。医師・衛生家は「速に細菌学的診断を施し、全力を尽して病毒撲滅法」を行い、診断が確定すれば、「第一に隔離、第二に消毒」を行わなければならないといったものである。
ここから、健康を監視する衛生社会(第4章)が導かれたと言えrだろう。しかし、患者やその家族を犠牲にしても、大多数の健康者を守り社会の清潔を図ろうとする社会防衛の視点に立ったこれらの処置(衛生警察や警察医などを含む)は患者の処遇改善に結びつかず、逆に中等以下の人民の間に亀裂をもらたし、患家と健康者との反目、患者の村八分を導くものとなった。
避病院(1897年に伝染病院に改称)や衛生警察の巡査の実態に関する章がつづき、衛生の内面化に向けた健康教育(第6章)に触れられている。
そして、健康増進法時代の今日、「国民の義務としての健康」が謳われているが、これについては最終章が当てられているに過ぎない。
健康増進法に対する批判として、働く者の労働環境や生活環境における危険因子の除去といった項目がなく、健康の増進は身体内の環境整備のみによって可能と思われているようである。また、「生活習慣病」(「成人病」の呼称は1950年代半ばに始まり、公衆衛生審議会の提起によって1997年から「生活習慣病」に変更)は運動不足や食べすぎ、過度な飲酒といった自己管理の甘さが基底にあるとしても、厳しい労働環境が引き起こすストレスや添加物漬けの食料品の氾濫、騒音や大気・土壌・水質汚染など、社会環境に由来する危険因子の存在を無視することはできない。特に低所得層においてはそうした危険因子にさらされやすい環境に置かれており、社会経済的格差は健康における不平等を生んでいる。といった点が述べられている。
この批判を、10chanも大いに、支持する(^_^)v。
さて、最後に...
著者の主張は、江戸知識人の健康観-「ほどほどの養生」による「ほどほどの健康」を得て「ほどほどの生」を終えるのが良い、である(あとがきより)。つまり、益軒時代の中庸を守ること、である。
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